不静産

 にょっきりと脚が生えて、ぐいっと立ち上がる。  そして駆ける。  道路を。   「うわ、あいつババ引かされてやがんの」    土地及びその定着物を定義する『不動産』。  その対義語、『不静産』。  土地に定着することのない元定着物。  物体の付喪神化が深刻な現代、新築の戸建てでさえ唐突に生き物となって走り回るのだ。   「助けてー! ローンがまだあと三十五年残ってるんだー! 駅近の新築なのにー!」    不静産は、生えた脚で走り回り、気に入った土地を探す。  静かな環境を好む不静産は、郊外へ。  賑やかな環境を好む不静産は、駅近へ。  そして、誰かの所有する空き地を見つけて、どっしりと座る。  脚が消えて、不動産に戻る。  なお、この移動による土地の占有は人間の意思が介在しないため、法律的に不法占拠にはあたらない。  むしろ、新しくできた法律によって、土地の所有権がスワップする。   「チュンチュン」 「ミーンミンミン」 「山じゃん! どうやって通勤すればいいんだよ!」    不静産の発生は、戸建てだけにとどまらない。  タワーマンションが走る。  住民である富裕層たちの阿鼻叫喚を聞きながら。   「落ちる落ちる落ちる! 価値が落ちる!」 「待て待て待て! 来月ここ売る予定だったんだ!」 「夢のタワマンがぁ!?」    不静産の発生は、日本全体の地価を再定義する羽目になった。  地震発生予測程度の信ぴょう性しかない不静産発生予測によって、不静産が発生しやすい都心部の土地の価格が下落した。  一方、賑やかな環境を好む不静産が発生しやい郊外の土地の価格が上昇した。    また、昨今新たな職業も生まれた。  不静産の声を聞くことができるという、霊能力者ならぬ不静産鑑定士。   「ふむふむ。ふむふむ。大丈夫です。この建物から、不静産の声は聞こえません」    九割は詐欺であり、一割は高い予測能力と統計能力を有しているフリーランスである。  一部の不静産鑑定士はその実績をひっさげて、有名人と言う立場でテレビのコメンテーターを担当している。   「昨今の不静産のトレンドですが……うお?」 「きゃあ!?」 「なんだ? 地震か? いや、まさか……?」    不静産は、突然発生し、走り回る。  対象の建物が、テレビ局だろうと関係ない。    ずっしんどっしん。  夜のゴールデンタイム。  家族団欒の時間に新しい刺激を与えるように、テレビ局の一つが郊外へと逃げだした。

よくある話

 早朝六時、コンビニの夜勤バイトが終わり外に出るとまだ辺りは夜の暗さを残していた。空を見上げると、風花のように雪が散っている。ついさっきまで、一歩先も見えないほど吹雪いていたものと同じとは思えないほど落ち着いている。  一晩の間で積もった雪は踏まれている場所も少なく、白い草原のように見えた。歩き出すと、ざくっと音を立てる。靴が濡れないように意識しながら歩いたが、すぐに冷たい水となってつま先に入ってきた。  踏切を越えた頃には、足に入ってくる水も気にならなくなり、滑らないようにと落としていた視線も今ではぽつぽつと灯る街灯を向いている。  人影一つ見えない街を歩き続けていると、一つの店の前、看板横に掛けられたランプの下に見慣れた二人の姿が見えた。  一人は腰に手を当てて首を傾げて立っている。もう一人は、しゃがみ込んでいる。緑色のセーターのせいで丸い観葉植物のように見える。  黒いエプロンの上に水色のカーディガンを羽織った店主が、足音に気付き顔を上げると「あ、お疲れさま」と言って小さく手を振った。 「お疲れさまです。何してるんですか」  二人の隣に立つと、しゃがみ込んでいた鹿江が顔を上げないまま「見てよこれ」と言った。鹿江の視線の先、店の扉のすぐ横の窓の下に雪だるまが三つ、お行儀よく並べられている。どれも両手に収まらないほどの大きさの雪玉を二つ重ねている。手の部分には木の枝、顔の部分は石がはめてある。 「すごいね。作ったの?」  そう訊くと、鹿江が首を振った。 「さっき、閉店の看板を出そうとした時に見つけたんだよ」  店主が白い息を吐いた。 「今晩の吹雪でお客さんはこの子だけだったんだけどさ、雪が降り始めてからお客さんどころか、店の前を誰かが通ったり、雪だるまを作るような物音も聞こえなかったんだよね」  鹿江が立ち上がり、辺りの道を見回した。ベージュのズボンの裾が雪に濡れて濃い色に変化しているが、そんなことは気にしていない様子だ。 「気付かなかっただけじゃないですか?風の音も大きかったですし」  鹿江がまた首を振り、周りの道を指差した。 「足跡も雪だるまを作るためにかき集めた雪の跡もないんだよ。これだけの大きさならかなり積もってからじゃないと厳しいよ」  確かに自分達以外の足跡や雪を掻いた跡は見当たらない。店主を見ると、眉を下げて苦笑している。 「雪だるま殺人事件ならぬ、雪だるま出生事件だ」  自信満々に言った鹿江は鼻を赤くしながら白い息を吐いた。そして、むせたように咳をした。 「ほら、寒いから一旦中に入ろう。ホットチョコレートでも淹れるよ」  店主はこちらを見て「せっかくだから朝ごはんも食べて行きなよ」と笑って言った。店主の言葉に甘え、温かい店内へ入った。  カウンターに座り、ホットチョコレートとサンドウィッチを食べていると、雪だるまのことなど忘れて、濡れた靴の中の痒さや痛みに気を取られていた。店主が椅子の後ろに電気ストーブを置いてくれたため、少しは落ち着いてきた。鹿江のズボンも少しずつ乾いているようだ。 「あの雪だるま、作ったんじゃなくて生まれたのかも。雪から生まれたんだよ、きっと」  鹿江は一人でぶつぶつと呟きながら雪だるまの考察を続けている。  不可解なことで溢れるこの町では雪だるまが突然生まれることも、あるのかもしれない。全てが曖昧なこの町では、出生不明の雪だるまが溢れても、すぐに「よくあること」で流されてしまうのだろう。

匂いを追う

息が詰まる。 ずっと君を待っていた。 もう針が時計を何周したかなんて検討にもつかないくらいには。 行き場を失った、居場所ないもの達がごろごろと部屋中に散在している。 まるで私のようだとさえ思う。 その部屋に私は沈んでゆく。 色々思うことはあるけれど、そんな感情は今はいらない。 ただ、煙のように漂っていきたい。 君の煙、君の匂い、どこを探しても見つかるはずもない。君が残していった箱を手に取り、その中に残った、たった1本の君に出会える最後の鍵を見つめる。 ねぇ、今夜だけ会わせてよ。 その鍵を私は掴み、暖かい炎をつけ、息を吸う。苦くて、でも遠くの方で少し甘みも感じる。 会えた。やっと君に会えた。 なのに、涙は零れない。悲しみ、というより心地良さが私をぎゅっと抱きしめた。 もう一度…もういちど、だが、箱の中身は空っぽだ。 無意識のうちに私は君の煙を纏ったまま、外にで、走った。 君を求めて…君の…君がしていたあの呼吸を…求めて。 色んな匂いを纏った。どれも違う、どれも君じゃない…君の匂いは…どんなだっけ。 ただ、ただひたすらに色んな呼吸をし、匂いを纏った。心地よい。自分の探し物は見つからないままなのに、それが何かも忘れて心地良さだけがずっと私を抱きしめる。 自分の匂いはまだ分からないけれど、もし見つかったなら、大切な人にその匂いで浸ってもらおう。 その匂いを纏ってもらおう。

共犯

今日、私は最高に生きている。《生》とは、《死》と表裏一体であり、さればこそ、《死》を意識することは《生》を意識することと言える。これを定説とするならば、間違いなく、私は今最高に《生きている》のだろう。 今、君の瞳に映る私は、喜びに満ちた顔をしているに違いない。いつも輝いている君に、負けないくらい輝く瞳を持って、このコンクリートの地面を踏んでいる。なのに、どうして。どうして君はそんなにも苦しそうなのだろうか。その大きく黒く、丸い瞳から溢れる雫は、何を意味しているのだろうか。 「ねえ、泣かないで。泣かないでよ。」 「だって〜…えっぐひっく」 「君は私で、私は君なんだよ。忘れちゃった?」 「ううん。でも、でもこんなのってないよ。」 「そう? これは私なりの落とし前。君がいるなら、私の残機は二機だから大丈夫。」 「でも、それは例えで…」 「私は例えで終えるつもりはないよ。本気で、君が私で私が君だと思ってる。だからここにいるの。」 俯く君に影が落ちる。飛行機が上を飛んで、エンジン音が聞こえる。影が暗く覆っても、君の涙は輝き滴る。君はワンピースの裾を硬く握った。 「私に、貴方のいない人生を送れと言うの? 自分だけが逃げて、私のためとか言うんでしょ? 本当に私の為だってんなら、生きて証明しなさいよ!」 「…」 「…出来ないんでしょう。ならなんで、一緒に逝こうって言ってくれないの?」 息が荒く、白くなって、風が髪を靡かせる。肩で息をする必死さが、虚しくも愛らしくもある。そんなに叫ばなくても聞こえるのに。それだけ必死ということか。 「君には関係ないことなんだよ。」 「何言ってるの? 共犯でしょ、私達。」 「私だけだよ。」 「違う!」 「何も違わないよ。君の母親を、禁書を使って殺したのは、私。」 「それは私を救う為だったし、元はと言えば私が貴方に頼んだから!」 「だから、共犯?」君は小さく頷いた。 「実行犯は私。ほら、大書庫から無くなった禁書を探しに、グリズが血眼だ。君は逃げて。」 「嫌よ。今更、貴方を説得しようと言うんじゃないの。逃げようとか、やめようとか言いたいわけじゃないの。一緒がいいのよ! 」君は涙ぐんで、声を震わせて言う。 「ねえ、カフナ。恩人が大犯罪者と邪険にされる世界で、私に生きろと言うの? あんまりだわ。貴方が私の母を殺したのは、母が狂人化したからよ。私が母を殺してと頼んだの。身の危険を感じたから。ただ衝動に駆られて考えなしに、なんて殺人鬼みたいな動機じゃないわ。」 「だが、こうするほかなかったとは言え、勝手に禁書を使った私を世界は許さない。私が死ねば、やっと、君も普通に生活できるだろう。」 「普通に生活なんて出来ないの。貴方が邪険にされる世界で、普通になんて出来ない。禁書でなければ葬れないほど進行するまで、行動に移せなかった私も、貴方に頼んだ私も。どっちも悪いわ。考え直せとは言わない。一緒に逝ってくれないのなら、どのみち私は貴方が逝ったあとを追う。止めても無駄ね。」 「…そうか。分かった。」もう、それ以上は言うまい。そう思った。 「カフナ、今《最高》って顔してる。」 「そうかな。」 「うん、そうだよ。ねえカフナ、来世も出逢おう。出逢って、また友達になるの。」 「そうだね。そうなるといいね。来世に賭けようか、私達は。」 「うん。こうしてれば、最後まで顔を見ながら逝けるよ。」 君はそう言って私の手を握る。私は絡むように握り直した。 「ふふ。恋人繋ぎじゃん。」 こうやって君とオワリを迎える事を、ずっと夢に見てたんだ。ありがとう。君が私に依存するように、私も君が愛おしい。多分、君も気づいているよね。 「バレたか。」

道の途中【BL】

彼は私の永い生の中に現れた唯一のひとでした。 暗い夜道に突如空に昇った星でありました。あてどなく歩く道を、もしやもう違えてしまったのではと不安に震える道中に、そこを目指せば良いのだと私を駆け出させる希望の火でありました。 実際には彼は隣にいて、いつでも私の手を引いてくれたので、旅人の星に喩えるよりは、掲げるランタンの方がいいのでしょうか。 ああ、遠すぎて温度の分からない星よりは、ランタンの方がうってつけかもしれない。彼の隣は温かかったのです。どんなに寒い冬の雪の日も、普段と変わらずに。 私は彼から多くを学びました。気遣いやら、笑わせ方やら、愛し方を。彼と同じにはできはしませんでしたが、彼のその様はたいへん、うつくしかったのです。全部、彼の言う愛によるものでありましたから、それを持たぬ私は、彼から見るこの世界はどれほど輝いているのだろうといつも不思議に思っておりました。 我々はどうやら同じものを見ることはできないのだ、と知ったのは、彼はとうに気付いていたのかもしれませんが、少なくとも私が知ってしまったのは、もう戻ることが叶わぬほど歩いた後でした。 歩き始めた地点はおろか、一度一人分が途切れた足跡の痕跡も見ることが叶わぬほど遠くまで来てからでした。 彼は変わらず私の手元にありました。この先どうしよう、と彼は決して言いませんでした。振り返る素振りすら私の見ている前ではしませんでした。 不安とともに私の手を握る掌に、ここに来てようやく、彼も私と同じくして、道を知らなかったのだと気付いたのです。 二人して道を失いましたが、私は別段悪い気はしませんでした。思えばここまで既に散々迷い、何故この彷徨い歩いた果てに、私の望む場所に、彼が連れて行ってくれるのだと疑うことなく信じていたのだろうと今更おかしくなったのです。 悪い気はしませんでしたが、悪いことをした気にはなりました。何故同じになれないのだろうと、苦しむ彼をずっと、隣で見てきたからです。彼は星でなくランタンでした。 連れ歩いたのは私です。

椿

私の理想の旦那様、いつになったらお会い出来ますか? 私ね、来たるその日の為に、自分磨きを頑張ってるの したたかに、控えめに、愛情深く、包容力のある女性になりたくて だから私、貴方に釣り合う女性になるわ 貴方に出会って、美しく咲いて、そして美しいまま散ってゆくの その時 貴方は、私に何を見るの? どんな言葉を掛けてくれるの? まだ始まってないのに、そんな事ばかり考えてしまう 出会った時は貴方、私に馬鹿な女って言ってくれるかしら ずっと探してたって、これも一緒に あとは優しく抱き寄せて その先だって、貴方となら… 私の理想の旦那様、早く私を見つけ出して 他の誰でも無い貴方と、この命を生きたいの そして、美しく散る私の姿を、大好きな貴方に看取ってもらいたい それで、お前は最期まで美しかったなって言ってほしいの。 それが短命な私の、理想の愛 理想的な、恋と愛と、そして旦那様 いつか現れると信じて、 人知れず咲く椿が一輪

悪人は手を繋いでくる

 いなくなる。いなくなる。俺の周りから、皆いなくなる。  理由は全くわからない。  でも、次から次へと消えていく。    小学校からの友達。  大学で知り合った友達。  社会人になってから趣味で知り合った友達。  仲良くしていたはずの彼らは、いつの間にか俺の周りから消えていった。   「大丈夫。俺は離れないから」    俺に残された手は一つだけ。  力強く握ってくれたので、俺も応えて握り返す。    離れていく友達なんて、どうでもいい。  俺は、いつまでも友達でいてくれるこいつを大切にする。    でも、待てよ。  友達がいなくなったのって、こいつが一緒にいるようになってからだったような。    俺がそいつの顔を見ると、そいつは白い歯をむき出しにした笑顔を作っていた。

君が紡ぐ歌

 晩秋の光が、レースのカーテン越しにやわらかく揺れていた。  ちゃぶ台の向こうでは、妻が膝の上に小さな命を抱いている。  産まれたばかりの初孫。頬をほんのり桜色に染め、すやすやと寝息を立てていた。  「ねんねんころりよ、風の音……」  妻の口から、そっと子守歌がこぼれた。  その旋律を耳にした瞬間、胸の奥がふっとざわめいた。懐かしい、けれどずっと忘れていた音。  あの頃、仕事で帰りの遅かった俺が帰宅すると、隣の部屋から聞こえてきた声──  なかなか寝つかない娘をあやしながら、妻はいつも小さく歌っていた。  歌詞も旋律も、特別なものではない。ただ、夜気に溶けていくその声が、どんな子守唄より温かかった。 「その歌、覚えてるよ」  と、ソファに座っていた娘が笑った。 「小さい頃、眠れないときにママが歌ってくれたよね。  最後の“夢のほとりで待っている”ってところ、なんだか好きだった」  妻は驚いたように目を丸くする。 「そんな歌詞、あったかしら?  私覚えてないわよ」  そう言って笑う。  「あの頃は毎日が必死で、記憶なんてほとんどないのよ。  朝から晩まであなたにかかりきり、夜もろくに寝てなくて。無我夢中だったわね」  子育てに追われていたあの日々。寝不足で、泣き声に振り回されて、余裕なんてなかったはずの妻。  その中で、娘をあやすたびに、自然と口からこぼれた歌。それを今また、孫に向かって歌っている。  何かを思い出しているのか、妻がふっと息をつく。 「……私の母も、こんなふうに歌ってたかもしれないわ」 「お義母さんが?」 「はっきり覚えてはいないけど、たぶん、私が眠れないときに歌ってくれてたのね。  ひとりで寝るようになってからも、夜になると台所の方からおなじ歌が聞こえた気がするの。  そのときのメロディーが、頭に残ってたのかもね」  そう言い孫をあやす妻の動きが、少しずつゆっくりになる。  「ほら、寝たわ」  妻が小さな声で言う。孫の胸が、ゆっくり上下している。  俺は思わず、そっと手を伸ばし、その小さな手を指先で包んだ。 「その歌、三代続きだな」  俺がそう言うと、妻は照れくさそうに 「たいした歌じゃないのにね」  と答えた。  その歌は、家族をつなぐ糸のようなものだ。妻が紡ぎ、娘が受け取り、孫へと渡していく。  何も意識せずとも、言葉や音は受け継がれていく。誰かを想って紡いだ歌は、形を変えても、消えない。  窓の外で、夕風が木の葉を揺らした。  小さな寝息と、遠くの風の音。そのあいだに、妻の声がまだ微かに残っているような気がした。 ──君が紡ぐ歌が、また新しい朝を運んでくる。  当たり前のように流れていく日常の中で、その旋律は響き続けるのだ。

金魚でさえも救われる

 祭りの縁日の、汚い盥の中。  金魚たちは苦しそうに泳ぎ回り、盥の前に座ったおじさんがにこにこしながら、ポイを差し出してきた。   「兄ちゃん、一回どうや? 二百円」    ぼくはポケットから百円玉を二枚取り出し、おじさんのポイと交換した。  続いて差し出された欠けたお茶碗も受け取って、ぼくは盥の前にしゃがみ込む。  盥の中をじっと眺めて、一番苦しそうな金魚を探す。   「一匹」    ポイが綺麗に水面の下をなぞって、金魚が一匹お茶碗の中に入る。   「二匹」 「三匹」    お茶碗の中が五匹になると、おじさんからにこにこ笑顔が消えて、苦虫を噛み潰したような顔になった。   「ちょちょちょ、兄ちゃん。取りすぎやって。そんなんじゃあ、商売あがったりですわあ。俺、明日のおまんま食えんようになるわ」    おじさんも苦しそうだったので、ぼくはポイを深く沈めて、金魚を掬う振りしてポイを破った。   「またどうぞ!」    心にもない言葉を言いながら、おじさんは金魚が五匹入った袋を差し出してきた。   「どうも」    俺は金魚たちを受け取り、家へと返った。  用意していた水槽に金魚を入れると、金魚たちは解放されたように泳ぎ始めた。    今日、きっと皆が救われた、  おじさんも金儲けができた。  金魚も命が救われた。   「ぼくのことは、誰が救ってくれるんだろう」    スマートフォンが振動を始める。  きっと、バイト先からだ。  電話番号という現代の命綱がある限り、ぼくはバイトからも逃げることができそうにない。

光と霧の狭間で

 夕方のグラウンドには、薄い霧がかかっていた。  最後の一本を跳び終えた僕は、息を切らしながら膝に手をついた。  足が思うように上がらない。タイムは今日も自己ベストに遠く及ばない。体は動いているのに、気持ちばかり空回りしているようだった。  チームメイトの笑い声が遠くで弾む。その明るさが、妙に遠い世界のものに思えた。  帰り道、夜風がまだ熱を帯びた体を冷やしていく。街灯の光がぼんやりと滲んで、まるで霧の中を歩いているようだった。  家に着くと、台所から包丁の音が聞こえた。母が仕事から帰ったばかりなのに、もう夕飯の支度をしている。 「おかえり、練習どうだった?」 「まあ、普通」  いつもの返事をして、靴を脱ぐ。  母は振り返らずにフライパンを振りながら、次の日の弁当用の卵焼きを焼いていた。カウンターには翌日の夕食の下ごしらえをしている野菜が並んでいる。 「すぐご飯できるから、着替えてきなさい」  その背中を見て、何も言えなくなった。疲れているはずなのに、母は止まらない。  そんな姿を見たら、「練習で足が上がらない」なんて泣き言、どうしても言えなかった。  食卓につきながら、なんとなくテレビをつけた。ニュース番組の特集で、陸上の五輪選手のインタビューが流れている。  去年のオリンピックで入賞を期待されながら、まさかの予選敗退──僕が中学のころから憧れているハードラーだ。 「一番辛かったのは、努力の方向が分からなくなった時でした。まるで霧の中にいるような」 「そんなときは、もう何も見えない。  でも、霧の向こうには光があるって信じて進むしかないんです」  画面の中の彼はそう言い、静かに笑った。 「誰に相談しても、答えは自分の中にしかない。  だから僕は、まず自分と向き合うことから始めました。  何が怖いのか、何が欲しいのか、ノートに書き出したんです」  箸を持つ手が止まった。  あの人も霧の中を走っていたのか。  結果を残せなかった悔しさを背負いながら、それでも前を見ている。 「弱さを認めることは、逃げじゃない。スタート地点を確認する作業なんです。  そこから、一歩ずつ霧を抜けていけばいい」  彼の笑顔とその言葉が、胸に染み込んできた。  食器を片づけて立ち上がると、母は台所で明日の夕飯の下ごしらえをしていた。 「何か手伝おうか?」  僕が言うと、母は手を止めて笑った。 「いいのよ。あんたは勉強しなさい。学生の本分なんだから……  あ、でも明後日もお弁当いるんでしょ?」 「うん。大会の前の日だから、軽めでいいよ」 「そう。じゃあサンドイッチにでもしようか」  母は鍋の火を弱めながら、淡々と段取りを立てていく。  その声を聞いているだけで、不思議と心が落ち着いた。  部屋に戻り、机に置いたノートを開いた。今日の練習の反省を書き出していく。  足の上がりが悪いのはリズムの問題かもしれない。フォームを見直そう。  ページの端に、あの言葉を書いた。 ──霧の向こうには光がある。  窓の外を見上げると、街灯の光が薄い霧を照らして、ぼんやりと浮かんでいた。  見えにくくても、そこに光はある。  僕はペンを置き、静かに息を吸い込んだ。  光と霧の狭間で、僕はまだ走っている。先が見えづらくても。  でも、その足はもう、確かに前へと向かっていた。

恋人はサンタクロース

 結婚しました。  連絡をした友達は喜んでくれた。  両親も喜んでくれた。    しかし、夫は普段家にいない。  まるで独身生活のままだ。    夫はサンタクロース。  一年かけてプレゼントを用意して、一日でプレゼントを配り終える。  だから、二人で過ごす時間なんてない。  人付き合いが苦手な私にとっては、そんな距離感が心地よかった。       「抜き足、差し足、忍び足」 「それって、泥棒のセリフじゃない?」 「おわぁ!?」    でも、さすがに何年も放っておかれるのは悲しい。  だから、私は子供の振りをして、サンタさんに手紙を書いた。  夫が枕元に来るように。   「明日! 明日、絶対戻るから!」    夫は私の書いたプレゼントを枕元に置いて、慌てて出ていった。  さてさて。  貴方が運んだプレゼントは、私からあなたへの贈り物だ。  それを知った時、どう思うか。  明日が楽しみだ。

彼氏のスマホの中を覗く能力

 きっかけは、浮気を目撃したことだ。  それ以降、彼氏のLINEを見たくて見たくて。  毎日心の中で思っていたら、なんかスマホの中を覗く能力が手に入った。   「何見てんの?」 「べっつにー」    彼氏のスマホを凝視していれば、通話履歴、SNS履歴、エッチな動画の視聴履歴がわかるようになった。  先週の私とのデートの後、エッチな動画見てんじゃねえよこの野郎。    おうちデートだというのに、彼氏はメッセージにご執心だ。  相手は、女。  ハートマークを大量につけて、私と付き合う前に、私に送ってきたようなメッセージだ。    彼氏がスマホに疲れて欠伸をしたので、私はため息をついて立ち上がった。   「ん? なに?」 「別れよ」 「え!?」 「私の目の前で他の女に連絡する人しか無理」 「え? 見えてたの? ちょ、ま」    彼氏は後ろを振り返り、スマホの画面が反射してただろう場所を探す。  そんな場所はないんだけど。  私は鞄を持って、さっさと彼氏の家を後にした。  いや、元彼氏か。    すっきり。    その後、私の能力は広がっていった。  デートをしている相手のスマホの中を覗けるようになった。  友達のスマホの中を覗けるようになった。  私の半径十メートル以内にいる相手のスマホの中を覗けるようになった。  私が見たいと思った相手のスマホの中を覗けるようになった。   (うっわあ。大人しそうな顔して、どぎつい動画見てんなあ) (え、この二人付き合ってたの? びっくり) (ひいっ! 突然のハメ撮りは心臓に悪い!)    誰もがスマホを持つ社会。  私は、まるで神様にでもなった気分だった。  相手の隠し事は丸裸。  ちょっと活用すれば、相手は私のことを素直に聞くようにもなった。   「お小遣い欲しい」 「はいっ! ただいまっ!」    何でも手に入る。  欲しい物が目の前に積み上がっていく。  なんて幸せな人生だろう。    そんな私の最近の悩みを聞いて欲しい。    彼氏と友達が作れなくなった。  誰のスマホを覗いても、ドン引きする隠し事の一つや二つ、あるのだ。    陰湿な陰口? 無理無理無理。  制服コスのセッ○ス? 無理無理無理。  売春? 無理無理無理。    無理オブ無理。  吐き気する。  キモいキモい。    スマホの中を覗かないようにしようとしたこともあるが、簡単に覗けてしまうのでつい覗いてしまう。  カフェイン中毒でコーヒーが手放せない人の気持ちがすごくわかる。   「信用できる彼氏、欲しいなあ」    私はスマホの中を覗ける能力を駆使して、超能力者としてデビューした。  テレビ番組や動画に引っ張りだこ。  今までより、圧倒的な格上男子ともたくさん会った。   「こいつも駄目か」    でも、格上男子たちは、私の周りにいたやつらよりも隠し事が多かった。   「センテンススプリング!」    もう飽きた。  私は、告発という告発をして、週刊誌から謝礼金をたんまりもらった。  そして、誰もいない南のリゾート地へと移住を決めた。    もう、人間が近くにいて欲しくない。  昔夢見た温かい家庭は、心の汚いやつらに全部任せた。

ひとちがい

 一番の失敗は名札を付け忘れた事だった。  深夜のコンビニ。午前二時を過ぎるといつもの青年がレジ前に立つ。あどけなさの残る顔をした彼は、いつも子ども向けアニメのキャラクターが描かれたグミを買う。はじめは軽い挨拶や掛け合いしかしなかったが、最近では少し雑談をするようになっていた。  しかし、今日の彼はどこかよそよそしかった。いつもなら「今日も寒いですね」や「遅くまでお疲れさまです」と言う彼が、何も言わずに焦った表情で小銭入れを漁っている。  他に客はいないため、無言で彼を待っていると、自動ドアが開く音がした。 「いらっしゃいませ」  呟くように言いながら、無意識にドアに目を向けると、女と目が合った。茶色いコートに身を包み、白いマフラーをした女は、こちらを見て大きく目を見開いた。そして、かつかつとヒールの音を立てながらレジに向かってくる。 「あなた、犯人でしょ」  女は緊迫した表情で、レジカウンターに手をついて顔を寄せてきた。女のついた手の音に驚き、青年は「おわあ」と拍子抜けした声を出して小銭を地面に撒き散らした。 「あなた、あそこの手配書に載ってる犯人でしょ」  女は自動ドアの横に貼られている指名手配犯の写真が並んだポスターを、尖った爪で指した。青年はしゃがみ込んで小銭を拾っている。 「あ、いや違いますけど」 「嘘つかないでちょうだいっ」  女の叫び声に、カウンターの下から「おわあ」という声と小銭が落ちる音が聞こえる。 「あなた、初めて見る顔よ。この町に逃げてきたんでしょう。名札をつけていないのも、名前がバレたら捕まるからね」  女は自信に溢れる表情で話し続ける。小銭を拾い終わった青年が顔を出す。 「ねえ、あなたもこの人、初めて見るわよね。あの手配書に載っている顔よね」  女は青年にぐっと顔を近付ける。青年は手配書と女の顔を交互に見ながら「分からないです」と震える声で言った。 「私じゃないわよっ。この人よ、この人」  青年は恐る恐る顔を上げて、こちらを見る。 「わ、わからないです」  青年の怯えきった表情があまりにも可哀想で、弁解してくれないことに対する憤りなど出てこない。  怯える青年と、こちらを犯人だと決めつける女性。警察を呼ぼうかと考えていた時、二人の後ろから一人の男が顔を覗かせた。  男は白く整った顔立ちをしていた。そして、後ろから女の顔を覗いた。女は驚き一歩下がったが、すぐに何か言おうと口を開けた。 「あれ、あんたじゃないの?」  男は女の声を遮るように手配書を指差して言った。 「ほら、そっくりだ」  男は内カメラを起動した携帯の画面を女に見せた。女は開けた口を震わせ、見開いた目を泳がせた。何も言わず、カメラから逃げるように不安定な足取りで自動ドアから出ていった。  女の後ろ姿を呆然と見ていると、青年が男に向かって「あの人、本当に指名手配犯なんですか?」と首を傾げて訊いた。 「違うよ。よく見なよ、全然違う」  手配書には女性の写真もあったが、さっきの女性と似た容姿のものはなかった。 「あれは思い込みが激しい人」  男は抑揚のない口調で付け足した。青年は「おわあ」と感嘆の声を漏らす。 「ありがとうございます」  なんとか出た声で礼を言うと、男は小さく頭を下げて隣のセルフレジで会計を始めた。その姿を見て、青年も思い出したように小銭入れからお金を出した。 「僕、人の顔が見えないんですよねえ」  青年は間延びした声で言う。 「顔の部分だけモザイクがかかったように見えるんです。間違っていたら申し訳ないのですが、宇井さんですか?」 「あ、宇井です」  彼の今日の違和感の原因に気付き、名札を忘れたことをひどく後悔した。

エロティック17フレイバー

     岡田 千知(おかだ せんち)       …高校生二年生      孝宏(たかひろ)       …千知のクラスメイト        📱📱🧜‍♀️ コンビニの外に置いてあるベンチで孝宏とスマホゲームに勤しむ。 いつもの場所のいつもの過ごし方。 雲に灰色と桃色が淵を取り始めると、夕方のチャイムが鳴った。 孝宏は「塾の時間だ」と立ち上がり自転車にまたがる。 同じタイミングで駐車場に停まった車から女性が降りてくる。 短いスカートに胸元が大きく開いたシャツを着ている。それな らいっその事、着なくても良いのではないですかと言うくらい 大胆な開き方だ。胸もかなり大きくシャツの間から谷間が見える。 そして美人だ。         「千知!オッパイ!大きい!」 女性がコンビニに入ってすぐに孝宏が騒ぐ。 「バカ。聞こえる」 孝宏は手を大きく振って、胸の大きさを表現している。 「お前は塾に行くんじゃなかったのか?」 「あっそうだ。じゃあ、また明日な」 孝宏は自転車に乗って去って行く。 時々こちらを振り返って胸の大きさを表現している。        👙🐾 俺もすぐに家に帰った。 歩いて十分ほどで家に着く。玄関を開ける前から俺を呼んでい る愛犬のココ。 扉を開けると彼女が飛びついてくる。 「待ってたよ!」 「遊ぼうよ!」 「ごはんくれよ!」 「ごはんくれよ!早く!」 とうるさいので、そのまま散歩に出る。 ココは短い足をペタペタとしながら、道の匂いを嗅ぎ、たまに オシッコをして、また歩く。ウンチをしている時はお尻が地面 に付くか付かないかギリギリの高さで気張り、気張り過ぎて そのまま前に進んで行く。 ココのウンコを待っている間、空を見上げ、綺麗な夕焼け空に 感動し、少し目線を落とすと薄桃色のブラジャーが目に入った。 アパートのベランダに干してある洗濯物を観察するのは良くな いことだと思う。が、たまたま目に入ってしまった為、これは 事故だったんだ。といい聞かせた。今日はラッキーが続く。      👙🐾🚲️ ぼんやり薄桃色の花を見ていたら 「岡田くん」 と呼ばれ小さな悲鳴を上げてしまった。 クラスメイトの宮下が自転車から降りて立っている。 ちなみに席は千知の前。 「お、宮下」 俺はなるべく冷静を装ってみる。 宮下が俺が見ていた方 に視線を動かすので、慌てて話しかける。 「か、格好良い自転車だね」 特に意味はなく聞いた質問だけど 宮下の視線を戻すことには成功した。 「うん、中古品だけどね」と照れくさそうに笑った。 素直に可愛い人だなと思う。 「可愛い〜」 俺の影で見えなかったのか、 ココに気付くと宮下がココを撫でている。 ウンコは出し切ったようだ。 「ココって言うんだ」 ココちゃん可愛いと撫でる初対面の宮下に、ココは既に腹ばい になっていて 「もっとお撫でなさい」 「お腹をお撫でなさい」 「たまに頭もお撫でなさい」 と姫様のようになっている。 俺はしゃがんでココを撫でている宮下を背中から見下ろす形に なる。 宮下のブラ紐が透けて見えたので思わず目をそらす。 目線の先には宮下のスポーツタイプの自転車がある。自転車を 見ながら、もう一度ブラ紐を見ようか死ぬほど考えて、考えて、 やめた。 宮下は振り向き、ココちゃん可愛い〜と訴えてくる。お前もな と言ってやりたい。 二人の戯れは、宮下のバイトの時間が迫ってきたためお開きと なった。 スポーツタイプの自転車に乗って颯爽と駆けていく様子は宮下 の雰囲気とはアンマッチなのに、カッコよかった。 スカートが閃いてスカートの中が見えそうだな。と思ったが見 ないことにした。何か悪いがするから。 見たいけど。 ココは 「また来るのよ!」 「そしてまた撫でるのよ!」 と言っている。        🐾🍱 その後、散歩を再開したが 十分も歩いてないのに 「もう疲れちゃった」 とココは座り込んでいる 「いつもの頼むよ」 と見つめるので、俺は「しょうがないな」と抱きかかえて家 に帰る。ココは温かく、とても重い。 抱っこされてされるがままの感じは可愛い。 ココの背中に頬ずりして 「そろそろシャンプーしないとな」 と呟く 「さぁ帰ったらご飯食べるわよ!」 とココが息巻く。 母親がいない日はいつもコンビニ弁当がテーブルに置いてある。 小さな頃からコンビニ弁当は食べ慣れているし、母親は申し訳 なさそうだが、俺は気にしたことはなく楽しみですらある。 家を出る時、テーブルの上に弁当の入ったビニール袋があるのは見たが中身までは確かめなかった。 今日は何弁当か予想しながら帰る。 どこかの家からカレーの匂いがする。 「急ぐのよ!そして早くご飯を出すのよ!」

記念日

        🚉  電車が駅に着くと、隣に男性が座った。  男性はスマホを取り出し操作している。その為、彼の肘が 腕に当たる。もっと引っ込めて欲しいな。と思うと同時に、 「冷たい」と感じる。  彼のコートが冷えている。  きっとホームで待っている間。いや、駅に向かうまでの間に も冬の朝に冷やされたのだろう。  彼は、もしかしたら、私で暖をとっているのかもしれない。 そう思うと、自分が陽だまりになったようで少し嬉しい。 「寒いので、ちょっと触れて暖まってもいいですか?」 と言われれば、ちょっと気持ち悪いと思ってしまうけど。        🚉  電車が次の駅に止まる。  目の前に二人の高校生が立つ。  バッグにはミニーちゃんやクロミちゃんなどのぬいぐるみが たくさん付いている。アイドルらしき若い男性の写真がぶら下 がっている。 「この間のバイト楽しかったぁ。私、裏のバイト初めてだったから楽しかった」 「『裏のバイト』って怪しいw」 「あっそうか。裏方の…作業?」 楽しそうに笑っている。  私が高校生の頃を振り返る。家の側にある小さな町工場で雑 用のバイトをしていた。  小さな機械で資材を切ったり、シールを商品に貼ったり、簡 単な作業をしていた。私は、定時過ぎの誰もいない工場で一人 作業をしていた。  お爺さんの社長と奥さんが、たまに様子を見に来てくれて、 お茶やお菓子をいただいたこともあった。  何で、あそこでバイトすることになったのか思い出せない。 けど、懐かしい。        🚉  電車が次の駅に止まる。  いつの間にか隣の男性がお婆さんに代わっていた。高校生達 は空いた席に座る。  次が私の降りる駅だ。  今の私の居場所があるところ。今日も働く。テキトーに。  目の前に座っている人と一瞬目が合う。この電車でよく見 かける人だ。ドレッドヘアーなので印象に残っている。  顔は整っているほうで中性的。そして若い。左足、スネ辺り にタトゥーがあるのを見たことがある。  ドレッドヘアーの人が立ち上がる。 「まだ駅に着くには早いけど」 と思っていると、私の隣に座った。  お婆さんとドレッドヘアーの人で私を挟む形になる。 「なぜ席を移動したのだろう」と横目でちらちら見ていると ドレッドヘアーの人も気が付いて 「こちら側だと富士山が見えるから」 と笑った。  感じの良い人だなと思う。富士山が好きなのだとも言った。  私も笑う。「確かに見えますね」と答える。  もうすぐ富士の頂がチラリと見えるところさしかかる。  私は少し興奮しているのか、発見した喜びを口に出しそうに なる。  今日は二月二三日。  ふじさん。 顔がニヤけそうなので必死に堪える。  窓の外を流れる景色はいつもと変わらないけど  今の私は富士山はまだかとワクワクしている。  隣の人の肘が私に少し当たっている。                               🗻

温泉へ

 耳の痛みで目が覚めた。小さな揺れの中、横から「起きた?」と声がする。目を開けようとすると、光が刺激となり頭が強く痛んだ。耳や頭だけではない。肩と首も動かすことが難しいほど痛み出す。少し首を曲げると、湿布の匂いが鼻をつく。 「あと三十分くらいで着くよ」  少し目を開けると、隣にハンドルを握る友人の姿がある。 「どこに?」  掠れた声で訊くと友人は呆れたようにため息をついた。 「温泉だよ。お前が行きたいって言い出したんだろ」  「俺が?」と訊くと同時に込み上げるような咳が出た。乾いた咳は止まらず、力んだ肩と首は痛みが強くなる。 「ほら、その咳と肩凝りを治すために温泉に行きたいって」  友人は咳が治るのを待ってから、話し出した。 「急に連絡してくるから驚いたよ」  何か話そうとしたが、咳が出そうになったため、口をつぐんだ。  そっと目を開けると、前には山道が続いていた。左は木々が生え、岩や砂の壁が立っている。右はガードレールが続いている。右の窓ガラスを覗くと、ガードレールの先はすぐに崖になり、下には大きな川が流れている。川辺には雪のような白い塊がいくつか見える。 「向こうに着いたら何食べたい?」  友人の言葉に目を閉じながら小さく首を振った。運転している友人に、その動きが見えているかは分からない。 「俺はね、蕎麦以外だったら何でもいいよ。蕎麦アレルギーだから」  頭の中で「知ってるよ」と呟いた。 「旅館にチェックインするにはまだ早いんだよね。だから昼食を食べて、温泉に浸かってから向かおう。いや、先に温泉の方がいいかな」  友人は「先に温泉だね」と一人で呟き、納得した。  小さな揺れの中で、タイヤが道路を走る音とエアコンの音だけが心地よく聞こえる。ラジオも音楽も必要ない。  乾いた咳が込み上げてくる。その度に頭も首も肩も強い痛みが走り、最後には耳がきんと腫れるような熱を持つ。  場所も知らない温泉を想像する。温かい湯船と湯気が、きっとこの身体を軽くしてくれる。効かない湿布も、数ばかりの薬も必要ない。 「もう少しで着くから、待っててよ」  頭痛のせいか、友人の声が遠く聞こえる。  呼吸を止めるような咳で目が覚めた。息を吸おうとするたびに咳が出て、肩から上を痛めつける。  咳が止まり呼吸が落ち着いた時には、目に涙が溜まっていた。  捻れた毛布から足が出ている。カーテンからは細い光が漏れている。ベッドの上にはペットボトルのお茶と薬の入った紙袋、湿布のフィルムが散らばっている。  大きく溜息を吐こうとすると、先に咳が出てしまう。 「温泉に浸かってから覚めてくれてもいいじゃないか」  頭の中で吐き捨て、壁を睨んだ。

物として借りられた

「来て!」    好きな人に、借り物競争で借りられた。  友達はキャキャーと黄色い声援で私を送り出した。  私も、赤い顔のまま好きな人の手を掴んだ。    一着ゴール。  司会の生徒が近づいてきて、好きな人が持つ借り物のお題を確認する。   「今回のお題は……えー……『好きな物』?」    黄色い声援は止まった。  私の顔も通常色に戻った。   「近くにあってよかった」    無感情に言う好きな人。  さっさと応援席へ引き上げていった好きな人。  ゴール付近で立ち尽くす私。   「『物』ってなんだよ!」    お題が好きな人だったら、現在進行形でハッピーエンド。  どこからともなく流れてくるいい感じの曲で、少女漫画さながらの展開を迎えたことだろう。  でも、物だと話は変わって来る。  私、物じゃなくて人間なんですけど。   「さっきの、どういう意味だと思う?」    応援席に戻った後、私は黄色い声援を飛ばしてきた友達に尋ねた。   「しっろぐっみ、ファイト!」 「しっろぐっみ、ファイト!」    が、友達は突然耳が聞こえなくなったらしい。  私の言葉を完全スルーで、次の選手の応援に勤しんでいる。  ムカついたので尻を叩いておいた。    お昼休み。  お弁当を食べながら、なんか色々考える。  私の好きな人は、私を好きな物と認識しているらしい。  それって、どういうことだろう。  私と同じく、恋愛的に好きなのか。  それとも、私を人間扱いしていないのか。  大穴、韓国学園ドラマみたいに、自認大金持ちの家の御曹司で周囲の人間を者扱いする夜郎自大説。   「わっかんなーい」 「ギャー! それ、私のタコさんウインナー!」    感情を爆発させるようにやけ食いして、午後を迎えた。  午後の種目は、二人三脚。  幸か不幸か私のパートナーは好きな人だ。  朝から待ち遠しかったこの時間が、今はモヤモヤタイムになっている。  まどろっこしい。  私は足首に紐を結ぶ好きな人を見下ろしながら、素直に疑問をぶつけた。   「借り物競争で、私を借りたじゃん」 「おー」 「『物』ってなに?」 「あー」    紐を結び終えた好きな人は、立ち上がって私の目をじっと見た。  そして、一点を指差した。   「ヘアゴム?」 「そのキャラ、好きなんだ」    確かに、私のヘアゴムには、マイナーなキャラがついている。  生徒多しと言っても、このキャラを持っているのは私くらいだろう。  あー、理由がわかった。   「私じゃねえのかよ!」 「え?」 「なんでもねえよ!」 「あっそう」    そして、二人三脚が始まった。   「なんだ、あの二人!」 「滅茶苦茶速い!」    結果、ブッチギリの優勝。  誰が、物に負けた女じゃ。  物より相性いいぞ、私は。    好きな人は相変わらず、さっさと応援席へ引き上げていった。

オートロックの罪悪感について

 夜をはじめとする暗闇は世界の色が数種類に限られて見えるだけで、そこにあるものの本質は変わらない。それでも暗闇で円やかに光る外灯は律(りつ)にとって頼りがいのある希望に見える。息を吐くタイミングで右足を地面に接地し、息を吸うタイミングで左足を接地する。律は心臓のリズムで歩いている。  百メートルほどの間隔で外灯が置かれているので、百メートルごとの歩数を数えてみる。百十六歩だった。五二三歩歩いたところでアパートに着いた。   「ただいま」誰もいないアパートの一室に律はつぶやく。もちろん誰からの返事もないが、返事があったら困るので帰ってきた事実をこの部屋に教えるのだ。半年前に上京したとき山手線にしては破格の家賃で住めるこの部屋に決めたのだが、オートロックがないタイプのアパートだった。男だからオートロックはいらないだろうという理由で多少のセキュリティの甘さは妥協をしてこの部屋に決めた。しかし「男だから」とかいう時代錯誤的な理由でここに住んでいることには、多少の罪の意識があった。今どき性自認は男や女だけではない。  律は疲れた体をベッドに投げうった。目を閉じてオートロックの罪悪感について考えてみる。「男だから大丈夫」とは一般論的に言えば問題があるのかもしれないが、個別化して自分の問題にすることには何の問題もない のではないか。性的マイノリティの人々が自分の性別を自由に自認していいように、マジョリティ側にも性別を自認する権利がある。ここでマイノリティ・マジョリティと言ったのは統計的に生物学的な性別と性自認が一致している人の方が多いからであり、他意はないことをここで述べておく。律の頭の中を誰かが覗けるわけではないが……律の罪の意識は眠りと共に消えていった。

秋と言えば、紅葉のように

 彼女とは大学からの付き合いだった。  卒業して就職し、この先も変わらぬ日々が続くと、そう思っていた。 『――ごめんね。今まで有り難う』  泣きながらそう言って、彼女は私の前から去って行った。  好きな人が出来たのだと。その人と結婚するのだと。 「いつか、こうなるとは思ってたけどね」  一人ごちると、白い息が秋の空に消えていく。  ビュウっと強い風が吹き、ロングコートが捲れ上がった。  ――秋と言えばなんだったか。  そうだ、食欲の秋とか読書の秋とか。 (私は、別れの秋だな……)  落ちていた紅葉を踏みつけると、乾いたクシャリという音がした。  夕焼けに染められた街は、家路に向かう人の波で今日も忙しない――なのに、とても寂しく見える。  雑踏から抜け、川岸の公園へ入った。  公園を囲む川面は橙色に染まり、夕陽を映してきらきらと光っている。  私はそれを、柵の向こうから眺めながら歩いた。 「寒いな」  思わずポケットに手を突っ込む。  あぁそう言えば――寒いと言った彼女の手を取り、コートのポケットの中で手を繋いだことがあったっけ。  今思えば、少女漫画みたいなことをしていたなと少し恥ずかしくなる。 (昔から、好きになってもらうことだけなら……苦労したことはないんだけど)  結局は、性別の壁がものを言うのだ。 「結構、本気だったんだけどな」  終わる時は、いつも一瞬だ。  歩いていると、学校帰りなのか塾帰りなのか、ランドセルを背負った子供達が楽しそうに駆け抜けていった。 (可愛いなぁ)  子供が好きだった彼女は、友達だった頃から言っていた。  血の繋がった家族に憧れているのだと。きっと彼女は、優しい母親になるのだろう。  そうやって、彼女がこれからの人生を歩んでくれるのなら――私は、何もいらない。 (もう、あの手料理を食べられないのは残念だけど)  少し薄味のみそ汁を思い出し、胸がきゅっとなる。  そう言えば、以前私を好きだと言ってくれた彼は、どうしているだろうか。  今思えば、彼を選ぶべきだったのか。  ……人としては、嫌いじゃなかった。  そんな事を考えながら歩いていると、ベンチにうずくまるように座る女性が目に入った。  何かを我慢するようにうつむき、頼りなく肩が揺れている。  私は近づき「まいった。フラれた」と言って、隣にどさりと腰を下ろし、背もたれに腕を広げて空を見上げる。 (……ここに一人きりだと、危ないし)  突然隣に座った私に驚いたのだろう。びくりと肩を震わせ、怯えたようにこちらを見た。 「あんたは、何かあった?」  空を見上げたままそう聞く。  しばらく沈黙が続き、だめかなと思った時。 「彼氏にフラれちゃったあああ~! バカバカバカ男ー!!」  しおらしく泣いているかと思えば、いきなり大声で捲し立てられる。  悪いとは思いつつ、少しだけ笑ってしまう。  清純そうな服装に乱れた黒髪。  真っ赤に泣き腫らした瞳と、崩れたメイク。 (……彼氏の好みに、合わせてたのかな)  鞄からハンカチを取り出し渡すと、奪うように受け取り、何度も顔を拭く。  ティッシュを渡すと、今度は盛大に鼻をかんだ。 「飯がマズイから、浮気したって……信じられる!?」  怒りと悲しみが混じった言葉を、私はただ黙って受け止める。 「私だって努力して……もう、男なんて知らない」  言葉尻が次第に弱くなり、かと思うと彼女は急に顔を上げて叫んだ。 「そもそも、お前も少しは作れよ!」 「作ってあげようか?」  その人は「え?」と、今さら気付いたようにこちらを見る。 「男は懲り懲りなんでしょう。お試しで、一ヶ月。私と付き合ってみない?」  なんてことはない、ただの気紛れだ。  同じ日にフラれた者同士、悪くないと思いだろう。 「え、え?」 「まぁそれはともかく、料理は職業上得意なんだ。もうこんな時間だし」 「のった!」  即答だ。さっきまで泣いていたのが噓みたいに。 「そう?」  手を差し出すと「お腹空いた」と言って、私の手をぎゅっと掴んでくる。 「もうこうなったらなんでもいいわ!」  これは朝まで飲み明かすコースかなと、家にあるワインを思い浮かべてふと気付く。  そう言えば、彼女と出会ったのは去年の今日だった。  風が吹き、二人分のコートが揺れる。  ――秋と言えば、食欲の秋とか読書の秋。 (私にとっての秋は……出会いの秋かもな)  私はその手を引いた。 「別れと出会いのパーティーでもしようか」  するとその人は、頬を膨らませて言う。 「さっきから台詞がちょっとくさいよね」  紅葉のように頬を染めて。 【秋と言えば、紅葉のように頬を染めて 完】  ――翌朝、ソファーで目覚めた彼女が、私を見てあんぐりと口を開けた。  その姿は、今でも笑い話のひとつだ。

花にカメムシ

 部屋の花にカメムシが止まっていた。 臭いと嫌われ者のカメムシが花に止まっている。 まるでクラスの冴えないいじめられっ子が高嶺の花子さんに話しかけているかのようだ。 うむ、頑張れカメムシ。 花子さんはどうしたらいいかわからず困惑しているようだ。 僕はカメムシをつかんで外に出した。 少しだけクラスの一軍男子になったような気分。 ここでメタモルフォーゼしカメムシを出した外に行き優しいヤンキーになる。 「まあこういうこともあるよ、カメ、ラーメン食いに行こうぜ。」 ・・・暇だ、僕ってホント友達いないんだな。

パチンパチン

 始発から電車に乗って勤務先の駅まで 各駅に止まるたび、人々で車内は埋め尽くされる。  主要な駅で大量に降りて、入れ替わりで大量に乗車してくる。 おにぎりのお米のようにぎゅうぎゅうと人々が詰められていく。    どこかでパチンと音が鳴る。  その音をきっかけにパチンパチンと音が鳴る。  人々は音とともに消えて行く。    目の前で黒いコートの人と黒いコートの人が触れ合うと、パチンと消えた。 その直ぐ側で白いバッグの人が三人触れ合うとパチンと消える。周りの人たちはスマホを見ていたり寝ていたりして気が付いていない。  僕はシートの一番端、隣には女子高生が座っている。彼女は教科書を広げ、テスト勉強をしているのか、人々が消えていることに気が付いていない。  僕は彼女と同じところがないか探す。 社会人と学生、スーツとセーラー服、短髪とポニーテール、男と女。ない。同じところはない。そうしている間にもパチンパチンと音がする。  ふと気になり、いや、さすがにそれはないか、と忘れようとするが、一度気になりだすとその考えが頭にこびり着いて離れない。恐る恐る教科書を見ると、「佐藤」と名前が書かれてあった。「僕と同じ佐藤さんだ。」その時パチンと当たりが暗くなった。

友人は遺書

私の友人が死んだ。 友人の最後は呆気なかったらしい。 ただ、彼女は、自殺したらしい。 彼女は凄く笑う子だった。 でも、少し空気が読めなくて、学校でも、キッチリその子が好きな子と嫌いな子の二択だった。 「普通」は居なかった。 でも、彼女は、そんな自分でもいいと、言っていた。 彼女の口癖は、「ま、そんな日もあるよね。」だった気がする。違ったような気もする。 その子は先輩と仲良くて、しょっちゅう遊んでいた。 髪はいつも朝早くストレートのポニーテールだった。 部活でも真剣にやっていた。でもね、その子、スパイクを打つ時の顔が少し怖くってね。笑 部のメンバーは、それをクラスの友達に話してた。 雨のような子と、新緑のような子だった。 他にも、沢山。言っていた。他の子も。 雨のような子は、彼女の事が多分嫌いで、新緑の子と仲良しで、新緑のような子はお喋りだった。 部のメンバーとは、彼女いわく、そこまで仲がいいわけではないらしい。ただ、1人を除いて。 クラスでもいつも彼女は、いじられていた。 ようは、彼女は「いじられキャラ」のようなものだったのだろう。 そんな毎日が続いて、年末には、彼女のメンタルは、崩壊寸前だった。 そんな彼女のことでさえ、みんなはいじくっていた。 彼女の心の中は誰も知らなかった。 本心は、どう思っていたのかも。 もしかしたら、前から死にたかったかもしれない。 先生が言っていたらしい。 「彼女は、強いから。」 これは、彼女のメンタルのことだと思う。 ならば、なぜ、先生は彼女を見殺しにしたのか。 強いから?それは、彼女が本当に思っていることなのか? 遺書には、彼女の友人へ、感謝の言葉が、絵文字混じりの明るい文章で、いつもと同じ喋り方のような感じで書かれていた。 その遺書は、本心か? 死と引き換えに、彼女の手に入れた嘘か? 誰も彼女を殺していない。 でも、彼女を殺したのはみんなだ。 クラスの、先生の、部活の同級生の、全員だ。 これを見た彼女は、きっと何も思わない。 ねぇ、これを見た君へ。 一言。たったそれだけで、人は死ぬの。 私の友人のように。 言ったたことは無い? 死ねや、ウザイ、とかさ。 言ったことがあるならば。 これからも、辞めた方がいいよ。 これは、ただの、友人を失った私の独り言。 そういえば。 私も口癖があるんだ。 「ま、そんな日もあるよね。」 どうだい?いい口癖だろう? この口癖はね。 なんか失敗しても、これを思うだけで、何となく軽くなるんだ。 魔法の言葉よのうさ。 この口癖を見つけた私は、正直運がいいよ。 だって、例え死んでも。 「ま、そんな日もあるよね」で、解決するからさ。

廃墟

 俺の住む街には誰も立ち入らない廃墟がある。  廃墟の住所を検索しても、この建物がなんだったのかという情報は一つも検索に引っかかることはない。  だからと言って、廃墟の近くに住む老人に聞いてみても忘れたの一言で軽くあしらわれる。  なんの情報もない、だがそこに廃墟という形で情報の種が残っている。これを芽吹かせるには俺はどうしたらいいのか。今年の夏休みはこの廃墟の謎に迫ろうと思う。    ……あれから、五年が経った。  知るべきではなかったと、今でも後悔し続けている。  当時、老人が口を揃えて忘れたと言っていたが、実際は忘れたのではなく忘れなければならなかったのだと、気づいた時には既に、手遅れだった。  そして……、また今年も。   「なぁ、あの廃墟ってさ元々なんだったんだろうね」 「確かにな。あとで調べてみねぇ? もしかして陸軍とかの建物だったりして」 「んなわけねーだろバカかよ! ハハハ」    彼らは、あの悍ましい事件をまだ知らない。知らぬが仏とはよく言ったものだ。  いや、知っても仏か。

いつものよる

(あー、今日も一日終わった) 軽くあくびをしながら、 カードキーをかざす。 明かりをつけた瞬間、ふと思い出した。 (しまった、今日もカーテンを開けていくの忘れてた) 光を通さない分厚いカーテンを開けてみる。 けれど、南の国とはいえ冬の夕方六時。 空に太陽の痕跡は、もうなかった。 再びカーテンを引く。 窓際で、少しうなだれた観葉植物が目に入る。 「さて、今日は何食べよう」 思いがけず漏れた独り言に、 冷蔵庫の低いうなり声だけが返事をした。 冷蔵庫の扉を開けては閉め、また開ける。 野菜はある。肉もある。 でも作る理由だけが見当たらない。 (あー、おなかすいた) スマホを手に取り、 結局今日も「考えなくていい店」を選んだ。 「あいかわらず“ズボラ”だな」と、 誰かの声が記憶の奥底から響いた。 ”配達時間30分” さて、時間ができた。 朝、脱ぎっぱなしだった部屋着を拾い、 洗濯機へ放り込む。 1LDKの部屋の隅々まで掃除機を滑らせる。 ここでは私が主であり、メイドである。 ひとしきり家事を終えると、 ソファに座り、 編みかけのセーターに手を伸ばす。 テレビはつけない。 音楽もない。 静寂に紛れるように、 私は編み棒を動かす。 ドンドンドン! 玄関ドアを開けると、 全身黄色の制服を着た配達員が 白いビニール袋を差し出す。 特に言葉を交わすこともなく、 袋を受け取ると、 配達員はそそくさと踵を返して去って行った。 ビニール袋の中身は プラスチック容器に入った一人分の料理。 箸やスプーンは入っていない。 エコのために自前の箸を使うのだ。 袋から料理を取り出し、 そのままテーブルに並べる。 チューリップモチーフの 手編みのコースターに、 白湯の入ったコップを乗せる。 目の前には、スタンドに立てかけたタブレット。 YouTubeアプリを開き、 30分程度の長さの番組を探す。 よし、準備OK。 (いただきます) さっきまでの静けさとは打って変わって、 一人語りYouTuberの大げさな話し声が響き渡る。 私は、目の前の料理に異物が混入していないことを確認する。 この国ではこれも「日常」だ。 食べ物を咀嚼しながら、 右耳から左耳へ一人語りを聞き流しつつ、 脳の奥で明日の予定を反芻する。 気が付くと、料理は空になり、 タブレットの画面は暗くなっていた。 (はぁ、おなかいっぱい) 椅子の上で少し伸びをすると 静かに立ち上がり、 入っていたビニール袋に、 空になったプラスチック容器を放り込み、 玄関先へ置いた。 使ったコップと箸を洗い終えると、 再びソファへと戻る。 まるでタイムリープしたかのように、 私はまた、 同じ姿勢で、 同じ夜を編んでいる。 誰に渡すでもないセーターを、 私は、まだ編んでいる。

現実カコカコカコ現実

「病める時も健やかなる時も」   『富める時も貧しき時も』  カット。   『死が二人を別つまで』  カット。   『愛し敬い』  カット。   「支え合うことを誓いますか?」    神父の言葉。   「誓います」 「誓います」    私たちの言葉。  五つの言葉で紡がれた誓い。  あの瞬間に、偽りはなかった。    でも、こいつは浮気ヤローだった。  病気になった時に必死に支えた私が馬鹿みたい。  あげく、将来の教育予算の使い込み。  救えない。    ああ、神よ。  懺悔します。  私は、誓いを撤回します。    貧しいことは無理です。  まだ生きているが別れます。  赦すことなどできません。       『病める時も健やかなる時も』 『支え合うことを誓いますか?』    私たちの言葉。  二つの言葉で紡がれた誓い。  これだけが、真実。   「嫌だ! 別れたくない!」 「あんたの意見は聞いてない!」    結婚指輪を投げ捨てた。  私の、かつての誓いと共に。

電話

 仕事中は電話が鳴らないでほしいと常に祈っている。  電話ほど人の仕事の邪魔をするものはない。私が意気揚々と着手している仕事の集中力を切らしてくるし、第一電話してくる相手が求めているのは私以外の誰かである。それなのに電話は私の席にある。何と無駄なことか。    ジリリリリリリ!!!!!!! 来やがった、私が出るしかないではないか。 「お電話ありがとうございます。ブルーハート株式会社です。」 「お世話になっております。レッドレバー株式会社の緑山と申します。白川様はいらっしゃいますか?」 「ええと、はい、おりますので代わらせていただきます、あっ、えっと、もう一度御社名お伺いしてもよろしいでしょうか」 「レッドレバー株式会社の緑山と申します」 「あ、ありがとうございます、白川に代わらせていただきます。」 私は受話器を白川さんに渡そうとしたが、受話器は有線なので、親機が引っ張られてしまった。 白川さんがこっちに来てくれた。 「白川さん、すみません、レッドレバー株式会社の…えっと…名前わかんなくなっちゃったんですけど、えっと…」 「大丈夫よ、代わる代わる」白川さんに震える手で受話器を渡す。 「代わりました、白川です。ええ、はい、はい、かしこまりました。その時間空けておきますので、はい、よろしくお願いいたしますー。はい〜」 白川さんは受話器を置いた。 「代わる時は保留ね。君が向こうの人の名前わからなくなってたの、向こうに聞こえてたから。相手さん、何回も緑山ですって名乗ってたよ」 白川さんは正しいことしか言っていないし、すごく親切に対応してくれたのに、私は安堵せず、ひどく落ち込んだ。「保留ね」が私の胸を突き刺した。かかってきた電話を決められた手順に従って他の人に回すだけなのに、そんなこともできない。 私が電話を嫌いなのは、本当は非効率だからとかじゃない。本当に電話が心から怖くて、勝手に焦っていつもの自分より3段階くらいバカになるからだ。相手の名前を繰り返しても覚えられない。メモをしても手が震えて字が読めない。声も震えて誰にも何も伝わらない。 私は電話に出るべきではないのだ。 悔しいとも思わない。ただただ、本当に怖い。 死ぬわけでも何でもないのに、どうしてこんなに電話が怖いんだろう。誰かに責められているわけでもないのに、見えない圧力に責められているんだろう。 しばらく落ち込んでから、トイレに行った。 用を足すわけじゃなく、ただ誰にも会いたくなかったから。5分くらいまた落ち込んでトイレを出て誰もいないビルの窓辺に立った。 ここはビルの八階、大きな窓から地下の様子がよく見える。 ここから見えるビルでも電話の音は鳴り響いてるんだろうか。 電話に殺された人がいたら、その人の気持ちが少しわかる気がする。電話が嫌いだ。電話が怖い。 電話電話電話電話電話電話電話電話電話電話電話 死ね。

タイ・ボックス

 朝七時、音のない声に呼ばれた気がして冴木は目が覚めた。夢は見ていなかったと思う。ベッドのすぐ横、掃き出し窓のカーテンの隙間から朝の光が漏れ出ていたので、今日は良い日になると確信した。そして「行きつけのマクドナルドでソーセージマフィンのセットを注文しよう」と決意した。その決意は出かける準備をしている間も無事に継続し、八時二十三分に家を出て、マクドナルドには八時三十分に着いた。全てが完璧だ。良い一日は良い朝食から始まる、みたいな使い古された一節を言いたくなった。    冴木はマクドナルドではモバイルオーダーで注文する。モバイルオーダーは素晴らしいサービスだ。「店内で、ソーセージマフィンのセット、ハッシュドポテトとホットコーヒーでお願いします」と言わなくても店員が席に食事を運んできてくれる。普通に注文しても機械的なやり取りをするのだから、より機械的でシステマチックで効率的なモバイルオーダーの方が好きだ。  いや、こんなものは方便で、人と話したくないのが本音だ。自分に嘘をつき、自分で図星をついてしまった。こんなに不毛な思考が巡るほど、今日の冴木は冴えていた。   「さて、席を探そう」と冴木は人の気配が少ない席を探した。しかしあいにくそんな席はこの大東京のマクドナルドにはなかった。東京都民はみな良い朝をマクドナルドで迎えたいのだ。    仕方がないので目に留まった席に座ることにした。右隣は誰かが雑にスーツジャケットを置いて席を占領していた。  右隣を占領している客はジャケットに皺が入ることを考えていないのだろうか。それとも皺など気にしない豪傑な人物なのだろうか。また不毛な思考を巡らせていると、店員が私のソーセージマフィンのセットを持ってきた。店員は持ってきた商品を確認してからそそくさと去っていった。やはりモバイルオーダーは素晴らしい。  焼きたてのハッシュドポテトを食べていると、右の隣人が姿を現した。初老の男性で、背は高かった。隣人を気にせずソーセージマフィンに手をつけようとした時、右隣の男性が声をかけてきた。 「ネクタイ……知ってますか?」 「すみません、なんですか?」 「ネクタイの結び方知ってますか?結び方忘れちゃって」 「ええ、まあ知ってますけど……」 「よければ結んでくれませんか?」     意味がわからなかった。   この人はなぜマクドナルドで赤の他人にネクタイを結ぶように頼んだのだろう。彼は髭を綺麗に整えてあったし、いつの間にか着ていたジャケットは皺がついていたが上等そうだった。「まあでも、困ってるなら助けるか」と冴木は思った。   「いいですよ、まずは襟を立ててネクタイを通しますね」  男性は何も言わなかったが、冴木は男性の方を向き、襟を立ててネクタイをねじれがないように丁寧に通した。  冴木自身ネクタイを結ぶのは久しぶりだったが、美しいディンプルを作り出し、小剣と大剣を適切な長さに揃えた。 「これでどうでしょう」 「ありがとう、完璧だ」男性は笑顔で言った。  冴木はにこやかに頷いて自分の席に向き直し、ソーセージマフィンを一口食べた。  そのソーセージマフィンは人助けした後の味ではなかった。  マフィンが口の中にまとわりつき、焦ってコーヒーを飲んだ。熱さで上顎の歯茎を火傷した。  冴木がソーセージマフィンを食べ終わる頃、男性が立ち上がった。  そして冴木の前に立ち、何かを渡した。  それは黒い箱だった。それはなぜか男性の皺がついたジャケットを想起させた。  光沢があって黒光りしているが、光の当たり方によってはくすんだグレーにも見える。 「これは何ですか?」冴木は言った。 「箱だよ。君が持つべき箱」 「なぜ僕に箱を渡すんですか?」 「君が僕のネクタイを締めたからだよ。そういう決まりになってるんだ」 冴木は混乱した。気持ちの良い完璧な朝になるはずだったのに、見知らぬ男性のネクタイを締め、怪しい黒い箱を渡されている。 「とにかく君が持っておいてくれ。君もそれを誰かに渡すときが来る。それまで捨てずに持っておいてくれ。」 そう言って男性は店から出て行った。  冴木は男性が退店するのをぼうっと見ながら、マクドナルドのゴミ箱にこの怪しい箱を捨ててしまおうと考えていた。しかし、どうしてもそれは捨てられなかった。大きさは冴木の握り拳より一回り大きいくらいの箱で、どの分別用ゴミ箱にも入る大きさだ。  冴木はしばらく悩んだ末、どう分別して捨てるのかわからなかったのでしばらく持っておくことにした。  もし俺がこのままこの箱を持ち続けたら、あの男性には何かいいことがあるのだろうか。それならそれでいい。もうネクタイは結べたのだから、彼が困ることはないだろう。  黒い箱は冴木の瞳と同じ色に輝き、朝から昼に変化していく人々を照らした。

砂時計の音

 朝の光が障子を透かして差し込む。畳の上を淡く照らすその筋の中で、私はそっと砂時計を裏返した。  さらさらと落ちる砂の音が、小さな命の息づかいのように聞こえる。  実際には聞こえるはずもない。でも、さらさら、さらさらと、確かに耳の奥で響いている。途切れることのない、静かな音。  テーブルの上にあるそれは、古ぼけてペンキがところどころはげ落ちている。娘が子育てしていた頃は、歯みがきのタイマー代わりに使っていたらしい。  今では、漢方のお茶を煎じるときに役立っているとか。あなたも健康に気を遣う歳なのね、と感慨深くなった。  砂時計の砂が、すとんと落ちた。  ひっくり返せば、また砂は落ち始める。何度でも、繰り返すことができる。  でも、人の命はそうはいかない。  夫が亡くなって干支が一回りした。この春、十三回忌の法要を営んだ。呼ぶ人も皆年寄りばかりなので、娘家族と息子夫婦だけで済ませた。  夫の友人たちは、もう誰も残っていない。私の友人も、この二年で三人が鬼籍に入った。 ──残された私の砂は、あとどれくらいだろう。  夫が亡くなったあと、一緒に暮らそうと娘に言われてこの家に越してきた。  元の家で独りきりのときは、テレビ以外は音を立てるものはいなかったが、この家はいつも誰かの声で満ちている。  娘の台所仕事の音、婿さんの帰宅の足音、そして今は、生まれたばかりの曾孫の泣き声。  命の音だ。  曾孫の花ちゃんは先週生まれたばかり。娘の娘の、そのまた娘。  白い産着に包まれた小さな命を抱かせてもらったとき、泣きそうになった。  眩しかった。眩しすぎて、直視できないほどに。 「ばあちゃん、よかったね」  娘が優しく声をかけてくれた。  あやされている赤ん坊の顔をのぞき込むと、ほっぺが桃のようにやわらかくて、目を閉じたときのまつげの影までいとおしい。 ──こんなに小さかった時があったのよね、娘たちも。 「ばあちゃん、これ、落ちきったらどうなるの?」  孫娘が、幼いころ訊ねてきたことを思い出す。あの時も、私はこう答えた。 「また、ひっくり返せばいいよ。時間は終わるようで、続いていくの」  けれど、本当はそう簡単じゃない。人の時間は、誰もひっくり返せない。だからこそ、音を聞く。落ちていく砂の音に、過ぎていく日々の重みを感じながら。 「お義母さん、お茶です」  婿さんが湯呑みを持ってきてくれた。ありがとう、と受け取る。すぐ飲めるよう、少し冷ましたものだ。  娘も婿さんも、老いぼれた私にごく自然に気を遣ってくれる。 「花ちゃん、明日またお顔見せに来てくれるそうですよ」 「まあ、そう」  顔がほころんだ。もう一度、あの小さな顔を見られる。あの小さな手を握らせてもらえる。  窓の外で、鳥が鳴いた。目をやると、庭の山茶花が紅い花をつけ始めていた。  曾孫の名前の花ちゃんは、孫夫婦が二人で考えたもの。どの季節も咲き誇る、命の力に満ちた花。  砂時計の音が、また聞こえた気がした。 ──さらさら、さらさら。  それは時の流れの音。終わりに向かって、確実に、静かに流れてゆく音。  私の胸の中では、その音が絶えず響いている。静かな、でも確かな音だ。 ──あの人の分まで、生きているんだものね。  自分の砂時計が下の膨らみに落ちきったとき、花ちゃんの砂時計はまだ上にたっぷりと砂を湛えているだろう。  そしてその砂もまた、美しく輝きながら、ゆっくりと落ち続ける。  テーブルの上、砂時計の砂はもう落ちきっている。私はそれをそっと裏返した。さらさらと、また音が始まる。  時間は戻らないけれど、命は続いていく。音を立てながら、静かに、確かに。

勇気と愚鈍

 人と話すのが怖い。  実際には何を恐れることもないのだが、「知らない人」、もっと厳密に言うと「これから関わることになる今はまだ知らない人」と話すことが怖い。  頭の中では「知らない人もそのうち既知の同僚になる」と理解できているが、心は彼らを恐れている。未知の世界は探究心や好奇心よりも恐れの方が勝る。  高いところから川に飛び込むには、勇気よりも愚鈍さが肝要だ。飛び込んだ先に大岩があって頭を打つかもしれない、たまたまスッポンがいて耳に噛み付かれるかもしれない、誤って背面から飛び込んでしまって水面に首を強打するかもしれない、なんてことをいちいち考えていたら飛び込むことなどできはしない。  飛び込むことで勇気を示し、周囲の人々からの侮蔑を僅かばかり上回る尊敬を得ることにのみ注目するべきなのである。道を開くのは進んで愚鈍になった者だけだ。  保身と小賢しさを持つものはかえって軽蔑されるし、自らの居どころが一向に進まない。どこにも行くことができない。    愚鈍になるとは本当の意味で愚かになることではない。暗澹たる航路を進むために灯台の光を探すことであり、暗がりからいつまでも抜け出せずに幽霊船になることではない。  愚鈍さとは光を探す意志である。人と話すことはお前の生命を前に進める行為である。

就活生

就活で説明会に申し込み 後に気付いた先着2名 オンラインでも参加できるは罠だ 先着2名って

コミュ障検定一級

「俺ってコミュ障だからさー」 「わかるー。俺もー」    居酒屋は、いつも通りの賑わいを見せていた。  家庭の愚痴、仕事の愚痴。  何の生産性もない無駄話であふれかえる。  しかし普通の人にとって、そんな時間も気の休まる時間だと言える。   「この後、カラオケ行く?」 「いいねー、行くかー。おーい、他にカラオケ行く人ー?」    楽しい時間が、たった二時間で終わるわけもなく。  二次会と言う次の予定が決まり、店員からの退席時間連絡と共に、次への準備を始める。    ぼくも水の入ったグラスを置き、後に続く。   「ごちそうさまでした」    店を出る際、レジカウンターに立っている店員へと一言。  今日、店内で口にした最初の言葉だ。   「カラオケどっちだっけ?」 「駅前に二つあった気がするー」 「片方はDAM限定じゃなかったっけ? 俺、JOY派ー」 「じゃあ、西の方かな」    大きな人の塊は、駅の西へと動いていく。  ぼくは駅の改札口をそのまま通過した。

忘れられた手紙

その手紙が彼によって忘れ去られていたことは彼女を深く絶望させることになった。繰り返し繰り返し彼に伝えてきたことが伝わっていなかったということなのだろうか。彼女にはわからなかった。  ボロボロになった手紙を何度も読み返した。その内容はもうどうにもならない事態を表していた。  彼女は頭を働かせてあの手この手で解決策を探した。家の中を歩き回り、あちこちなにか良い手は無いかと探した。冷蔵庫の中を確認し、家中の棚や抽斗を片っ端から開け、くず箱の中まで覗き込んだ。しかし何も見つからなかった。解決策などないことは最初から彼女はわかっていた。誰よりもわかっていた。  彼もまた涙を流して絶望していた。自分の愚かさを恥じ、絶叫した。無意味だとわかっていても癇癪を起こして暴れた。それは彼女を怒らせるだけだった。ついに暴れる力が尽きた。彼はさめざめと泣いた。  涙を流し続ける彼に彼女は言った。 「あのね、こんな時間に牛乳パックなんて用意できないの!」

日記

最初は小学生の頃だった。 夏休み、蒸し暑くイライラしていたところに、1匹の蝉が木にとまっているのを見つけた。 蝉を捕まえた僕は、ジジジと鳴く声に苛立って、羽を1枚毟り取った。 まだ鳴くので、もう一枚、もう一枚と全部取った。 羽もなくなった蝉を、僕は地面に叩きつけ踏んづけた。 その蝉はもう鳴かなくなった。 次は物だった。 中学生になった僕は、受験のストレスで自室の枕をカッターで引き裂いたりした。 でも、それだけじゃ物足りなかったので、妹のぬいぐるみを引き裂いた。 バレると困るので、ゴミ袋を二重にして捨てた。 今度は人だった。 無事受験に合格した僕は、暫く大人しかったと思う。 けど、日々の生活の中でストレスは溜まり続けていた。 帰り道、ホームレスを見つけた、僕は何度も蹴り続けた。 蹴るのに疲れたので、次は殴ってみた。 手も痛くなったので、鞄にしまっていたハサミを取り出した。 目の前の人は怯えているように、やめてくれ、やめてくれと、僕に懇願していた。 僕は気にせず振り下ろした。 流石に殺すのはアレだったので、手のひらや、髪の毛を切った。 大人になった僕は、人を痛めつけるのをやめなかった。 けど、こんな僕でも妻と娘がいた。 妻はもう一人身籠っている。 僕はストレス発散をやめ、仕事に明け暮れていた。 休日出勤や残業続きで、中々妻達と触れ合えなかったと思う。 ある日、妻が知らない男と親しげに歩いているのを見かけた。 目の前に、妻だったモノが血を流して倒れている。 妻だったモノの隣には、知らない男。 僕の腕の中には娘がグッタリしたまま息を止めている。 妻だったモノの腹を引き裂いて、赤ん坊らしきものを取り出した。 僕はソレの息の根を止めた。 後から聞いた話で、あの男は妻の従兄弟だったらしい。 僕は妻の従兄弟の顔を知らなかった、妻の口から聞いたことがなかった、きっと嘘だ、そうに決まっている、腹の子供もきっと僕の子供じゃない、嘘だ 僕は捕まった、当然死刑判決らしい。 今、拘置所で日記を書いている。 僕は、何がいけなかったのだろうか。 この日記は、書いてて意味があるのだろうか。 僕は悪くないはずだ。 蝉を殺したのも、妹のぬいぐるみを引き裂いたのも、ホームレスを痛めつけたのも、家族を壊したのだって、僕は悪くないはずだ。 けど、僕はきっと悪いのだろう。 僕自身が分からなくても、周りが悪いと決めれば悪いのだ。 そうか、僕は悪かったのか。 ごめんなさい ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい ごめんなさいごめんごめんなさいごめんなさい ごめごめんなさい ごめんなさいごめんなさいごめんなごめんなさい ごめんなさい ごめんなさい 日記はここで終わっていた 男は、死刑執行された

【松田シリーズ】第二話 松田と電車

 喫茶店を後にし、松田は帰路についた。御茶ノ水から秋葉原まで、中央線や総武線の電車を横目に歩く。電車は轟々と音を立て、松田の耳を刺激する。自分の乗らない電車ほどうるさい音はない。嫌いな騒音はたくさんあるが、その中でも電車の走行音ほど耳をつんざくものはない。電車が通る高架下などは耳を切り落としたくなるほど不快だ。しかし松田はゴッホでも暴力団員でもないので、備わった身体を自ら手放すようなことはしない(できない)。  見慣れた街並みを進み、外国人で溢れる秋葉原に着いた。彼らはしばしばクレープを食べていたり、ヨドバシカメラで質の良い電化製品を物色している。様々な外国人をひとまとめに「彼ら」とするのはいささか主語が大きくて不安であり不適切かもしれないが、おおむねの印象として彼らはクレープを食べている。たしかにクレープは美味しい。グローバリズムに煽られた人種入り混じる現代日本のように、多種多様な味がある。  松田はクレープを食べずに山手線の電車に乗った。  松田が乗るのは山手線の秋葉原駅から内回り。下車するのは駒込で、途中に七駅ある。数ページは読めると思い松田は読みかけの本を開いた。 午前十二時より少し前の時間帯だったから、乗客数は健全な人数だった。田舎育ちの松田としては幸運だ。  しばらく本を眺めたが、なんとなく集中できなかったので車内を見渡すと、サラリーマンや何の仕事をしているかわからない人々がみなそれぞれのスマホを見ていた。彼らのスマホではアルゴリズムによってつくられた別々の世界が広がっていて、電車という乗り物が彼らの目的地に連れて行ってくれるという現実はどうでもよさそうだった。彼らはどこに行きたいのだろう。  日暮里に停まるとたくさんの人が降りた。自分が一度降りて降車する人々が出やすいようにしたかったのだが、自分の背中側からもその反対からも降車客が通り抜けようとしたので身動きがとれず、本を持ったまま両手を上げるしかなかった。松田はブックカバーをしない主義なので、「私はこの本を読んでいます!」と大っぴらに本のタイトルと「私は読書家である」というような主張をしているみたいになってしまった。しかし誰も松田のことは見ていなかった。  日暮里で降りた人々と同じくらいの人が乗車してきた。電車は先ほどよりも健全性を失った人数になったが、それでも進み、時に大きく揺れ、吊り革がないところに追いやられた人々がバランスを崩した。それは資本主義的な光景だった。無意味なほど多い人々の社会に、掴まったり頼ったりするものがない時、人はバランスを崩してしまう。座れなくとも、掴める吊り革があることは電車内での権威だ。吊り革さえ掴めない哀れな者たちは、電車内では弱者になり得る。しかし電車はそんなことはお構いなしに、定刻通りに全ての乗客を運ぶ。  田端に着いた。あと一駅でこの運命共同体的な乗り物から降車する。電車は乗客を目的地まで運ぶが、乗り合わせた全ての他人は仮初の時間だけでも電車の中で運命を共にする。この電車が事故を起こせば皆死ぬかもしれない。しかし松田が見たところ、そんな面持ちをした乗客はいない。皆一律にファストで無駄な情報を次から次へとスワイプしている。松田は彼らに抵抗するように、命懸けで分厚い単行本をゆっくりとめくる。  目的地の駒込に着いた。東口から降り、無事に電車を降りられたことに安堵する。  しかし東口の真上にある高架下は電車の走行音を轟かせ、安堵は苛立ちに変わった。 「そういえば駒込にも新しいクレープ屋さんができたんだったな」松田はクレープ屋さんめがけて歩き出した。

【学生】その気持ちはまだ、芽吹いたばかり。

 昨年《さくねん》の今頃、彼が大学に入学して間もない春のこと。  新しい町、新しい暮らし――まだ不慣れな通学路の途中に、木枠の引き戸を外して開け放ったレトロな花屋があった。  店先にはブリキのバケツや木箱が並び、色とりどりの花々が春の風に揺れている。  通りに漂う花の香りと水の匂いが混じり合い、その前を通るたび、爽やかで甘い香りが鼻をくすぐった。  ちょうどその頃のことだった。  最初はただ通りすがりに見るだけだったのに、いつの間にか、その姿を探してしまうようになっていたのは――。 「朝彦《あさひこ》さん」  通りすがりの花屋で働く青年。彼は朝彦という名だ。  それを異国の血が混じる彼が知ったのは、本当に最近のことだった。  最初はただ、よく通る道にある小さな花屋の男。  それくらいの印象しかなかったが、通るたびその姿を目にしては、だんだんと気になって、気になって仕方がなくなっていた。  もう一度「朝彦さん」と小さく口にしてみる。  すると、心がふわっと浮くような、暖かくなるような、照れるような――妙な感覚がした。 「呼んだかい?」  思いもよらぬ声に弾かれるように振り返ると、そこには箒を片手にした朝彦の姿があった。  袖をまくった腕に光があたり、細い影が地面に落ちる。  黒縁の眼鏡の奥の瞳は、やわらかくほころんでこちらを見ていた。 「僕の名前、知ってたんだね」 「誰かに聞いたのかな?」と、朝彦は人好きのする笑みを浮かべる。 「君、いつも此方を見ているけれど――花が好きなのかい?」  予想外の問いに返事ができず、ただ立ち尽くしていると、朝彦が少し首を傾げた。  柔らかな風が通り抜け、白い花びらが二人の間を横切る。 (……っ!)  何故か急に顔が熱くなり、思わずそっぽを向く。  それをすぐに後悔して、声にならない言葉を心の中で上げていると――ふふっと笑う声。 「そんなに恥ずかしがらなくても、僕も花が好きだよ」  花が好きだと恥ずかしがっていると思ったのか、朝彦はそう言って小さな鉢植えを持ち上げ、花を愛おしそうに眺める。 「これなんかどうだろう?」  差し出されたのは、可愛らしい青い花。  風に揺れて、かすかに香る。 「君の瞳のように綺麗だ」  そんなことを言われたのは初めてで、思わず面食らう。 「あまり好きじゃなかったかな?」 「……いや、うん」  本当は興味などまったくなかった。 「好きだ」  この国では珍しくもない、真っ黒な瞳。  けれど、誰よりも美しいその瞳をしっかりと見つめながら――  〝嘘とも言えない嘘〟をつく。  その瞳は嬉しそうに細められ、春の日溜まりのように暖かく、彼の世界を彩った。 「良かったら、名前を教えてくれる?」  自分を見詰める瞳。  どきどきと胸が高鳴る。  高揚する頬、乱れる呼吸。 (あぁ、そうか。そうなのか。この気持ちは――) 「俺は――」 【その気持ちは、まだ芽吹いたばかり。完】

【花屋】その気持ちは果たして、

 はてさて、どこからお話ししたものでしょうか。  これは戦後の焼け跡から復興が進み、町にようやく笑い声と暮らしが戻った頃のお話です。  戦争の影が薄れ、洋服もラジオも映画も喫茶店も、どこか誇らしげに息づき始めておりました。  子どもたちは外で遊び、花屋やパン屋などの小さな店が並び、そして――学生たちはまだ、政治の嵐に巻き込まれる前。  昭和の、まだ空が穏やかだったころのことです。  ◇◇◇  季節は春。  木枠の引き戸を外して開け放った花屋の店先には、色とりどりのチューリップやスイートピーが並び、通りを渡る風が花びらをくすぐっていた。  淡い香りがふっと流れ、陽の光はまだ少しやわらかい。  ある町に、一人の正直者の青年がおりました。  彼は朝から晩まで花を売り、花を束ね、花を並べて働いておりました。  花屋という仕事は水仕事も多いもの、ですので彼の手はいつも|皹《あかぎれ》て、よく薬を塗っていました。  けれど、正直者だからといって、なんでもかんでも正直に話すわけではありません。  彼は、人を傷つけるような正直は嫌いなのです。  そんな彼には、気になる相手が一人おりました。  どう気になるのかと言いますと――たまにですが、店の前を通るたびに文句を言っていく学生がいるのです。  どんな学生かと申しますと、まるで素直じゃない青年でして。  あぁ、ほら今日もまた。家路に向かう途中、覗きに来たようです。  金の髪に青い瞳の彼が――。 「――相変わらず、汚い手だな」  開口一番にそう言われ、花屋の青年は瞳をわずかに見開くと、その声の主を見やり、やがて「あぁ」と目尻を優しげに下げた。 「君か。今日も相変わらず綺麗な瞳だね」  なんの恥ずかしげもなくお決まりの言葉を言ってのけるものだから、学生は照れ隠しにそっぽを向く。 「そんなことを言うのはアンタくらいだ。大概の人間は、この髪と瞳を嫌がるさ」  返ってきたお決まりの言葉に、青年は苦笑しながら店仕舞いの準備を始めた。  花を店の中へ運んでいると、当たり前のように彼も手伝う。  開け放たれた店の奥から、花と水の匂いが外へと流れ出す。 「この町では珍しいからね。君のその――」 「異国の人間にそっくりだからだろ。仕方ないじゃないか。母親がそうなんだ。まったく腹が立つ」  怒りが収まらないのか、花の入った容器をやや乱暴に運ぶ姿に、青年はひやひやとした。  それでも花は散らず、香りだけがそっと空へと昇る。 「アンタだって、本当はそうなんだろ?」 「まさか。君の髪も瞳も、とても美しいと思うよ」 「そんな嘘は聞き飽きた」 「本当だよ。僕は君が好きなんだ」  何気なく言った言葉は、青年の正直な気持ちだった。  だが学生は、何を思ったのか妙な顔のまま微動だにしない。  五分たってもそのままなので、心配になった青年が頬をつついてみると、待っていたかのようにガシリと手首を掴まれた。  驚いて声を上げると、真剣な瞳で見つめる彼と視線が重なる。 「……本当だな?」 「え?」 「本気にするぞ」  なんのことか分かりかねながらも、嘘ではないと頷くと、今度は何かを思い詰めたように黙り込む。 「俺、必ずいいところに勤めて、絶対アンタを幸せにするよ」 「はい?」 「そんな手が|皹《あかぎれ》るような生活はさせない」 「え、花は好きだから、それはちょっと……」 「じゃあ、ハンドクリーム死ぬほど買ってやる」 「ハンドクリーム?」 「あるだろ、手荒れ用の〝ももの花〟」  なんだかおかしな方向へ話がすすんでいるが、彼が至って真面目なのは痛いほど分かる。  けれど、どうしてこんなことになっているのかと、青年の頭は追いつかない。 「だから――」  ぐいっと引き寄せられ、唇に何かが触れて、離れていく。  春風が二人の間を通り抜けた。 「絶対、待ってろよ」  そう言い残して彼は店を後にした。  残された青年は、ふらりとそばにあった踏み台に腰をおろした。  何がどうなったのか――いや、もしかしなくとも、自分はとんでもないことを言ってしまったのか。  どうしてか、今起きたことが嫌ではない。  そう思いながら、胸の奥でざわめく鼓動。  果たしてこのざわめきは、〝嘘か誠〟か。  ――ある町に、正直者の青年がおりました。  その者は朝から晩まで花を売り、花を束ね、花を並べて働いておりました。  花屋という仕事は水仕事も多いもの、ですので彼の手はいつも|皹《あかぎれ》て、よく薬を塗っていましたが……今ではそれも〝過去のお話〟。  彼の隣には、いつも彼がいるのです。  金の髪に、青い瞳の彼が――――。  店先では、春風が花びらを踊らせていた。 【その気持ちは果たして、完。】

ロケット本体じゃなくていい。下のほうのヤツでいい。

お勉強。 飲み物飲んで ちょっと休憩。 お勉強。 目薬さそうと思ったら 少しこぼれて ティッシュ取りにいって ちょっと休憩。 お勉強。 甘いもの食べて ちょっと ちょっとだけ休憩。 なんかさー 過去問が目の前にあるだけで 疲れるんだよ? 開いて問題解いてたら もっと疲れるじゃん? 早く解放されたい。 もう やだ。

只今地震の真っ只中で頑張る精霊の皆さんへ

絶対宇宙はあなた達の愛と勇気に報いますよ 愚かな人間を救う使命の皆さん一度しっかり 彼彼女達の心を覗き本音と立て前か利用する 為なのか判断して下さいそしてもしもあなた 達が宇宙を疑う時はあなた達にしか見え無い 太陽と瞼に写るオレンジを信じて下さい私達 宇宙は神々と同盟を結び地球で地震に遇うと 言う恐ろしい中でも決して愛や希望に勇気を 忘れない不屈な魂に敬意を称しますよそして 地球で頑張る精霊の為最悪な時は宇宙に信号 出して助けて下さいと祈り願うのならば私達 宇宙と神々は慈悲の念を抱きあなた達全員を 救うでしょうね皆さん互いに手を取り合って 宇宙の応答信号を見逃さず4時元か5時元の どちらかへ送迎致しますしかし其れは決して あなた達が劣ってると言う意味じゃ無いです これは宇宙の法則で未だ完全に目覚めの時や タイミングが合う魂の優しい選別ですよさぁ 共に宇宙の空間を旅して見ませんか

楽屋の画伯

楽屋からステージへ、一組のバンドが出ていく。 「じゃあ、お先」 「行ってらっしゃい」 五人の男が出ていった。 「あのバンドの次が俺たちだよね?」 「そう。次」 「リハの時、ギター上手かったんだよな。  俺ちょっと見てくるわ」 うちのギターがフロアへ出かける 「俺は酒買ってくる」 ドラムはコンビニへ。だいぶ酔っているようだが止めない。 ドラムの嫁であるボーカルは足を噛んでスマホを眺めている。 僕はやることもないので、お酒を呑んで過ごす。 楽屋の隅で十歳くらいの男の子がいる。 他のバンドが連れてきた子だ。 リハの時から今までずっとお絵かきをしている。 たまにママが来て話しかけているが、ママもすぐにいなくなり また一人絵を描いている。 僕は男の子の隣に座る。 男の子がこちらを見る。 「何描いてるの?」と聞こうとして言葉に詰まる。 人だ。沢山の人がスクランブル交差点を入り乱れて渡っている 僕はウォーリーを探せみたいだと思う。 「すごい」 思わず口に出る。 男の子はまだ僕を見ている。 「上手だね」 親指を立てて言うと男の子も親指を立てて返してきた。 そして絵を続ける。 豆粒見たいな人達がペンの先から次々に生まれてくる。 サングラスをかけた若い女性 頭の薄いスーツの男性 キスをするカップル 色んな人が街を埋め尽くしていく。 男の子が再び僕を見て、紙に描いた人物を指している。 「ん?その人がどうしたの?」 ガードレールに寄りかかり、缶ビールを飲んでいる男の人を もう一度指でさして、その指をゆっくりと僕に向ける。 「え、これ、俺?俺のこと描いてくれたの?」 男の子はうんと頷く。 「ありがとう。めっちゃ嬉しい」 男の子は子供らしい無邪気な笑顔になる。 男の子が親指を立ててきたので 僕も親指を立てて返した。

観覧車

 拝啓 水島君  最近、よくあの日のことを思い出します。  地域の小学生の子ども会で遊園地に行った日のことです。その日、友達やみんなはジェットコースターへ走る中、ジェットコースターが苦手な私はみんなの輪から外れていました。仲間外れにされたわけではない。そう分かっていても「乗れないから」という理由で一緒に行動できないことに焦りや孤独感を持っていました。  そんな時、どういう経緯でそのようになったのかは思い出せませんが、水島君と二人で観覧車に乗ることになりましたね。たしか、他の人たちは違う乗り物に向かっていたと思います。一人でみんなを見ていた私を、水島君が気遣ってくれたのか、水島君もジェットコースターが苦手だったのかは、今になってはもう訊きようがありませんね。  当時小学二年生だった私にとって、四歳上の水島君はもう大人のような存在でした。同じ小学生というよりも、先生に近い存在でした。それまで、学校や通学路でも話した記憶はありません。緊張しながら俯く私に、水島君は外の景色を見ながら、何気なく話しかけてくれましたね。「頂上に着いたとき、願い事をすると良いらしいよ」と。  私が「願い事が叶うの?」と訊くと「どうだろう」とつまらなそうに答えていましたね。  観覧車が頂上に近付くころには、みんなが乗っているジェットコースターの高さを優に超えていました。思いのほか高い位置に怯える私に、水島君は気付いていたのでしょうか。  水島君が「見て、みんな小さいよ。おもちゃみたい」と言うので恐る恐る外を見ると、ちょうどジェットコースターが走っているところでした。さっきまであんなに大きくおぞましく見えていた機械が小さなプラレールのように見えます。それに乗っている人々は、顔も見えず区別もつきません。  私はその時のことを、よく思い出すんです。眠る前、布団の中で思い出しては観覧車に乗るんです。自分が住んでいる町を、取り巻く環境を、自分自身を、距離をとって見るために少し高い場所に逃げるんです。すると、少し息がしやすくなる。  水島君とは観覧車に乗って以降、話した記憶がありません。もしかしたら、そのあと一度も話していなかったのかも。水島君は、私の存在すら覚えていないでしょうね。  水島君が行方不明になったと聞いて、私は水島君は観覧車の中へ逃げたんじゃないかって思ったんです。少し高いところで、あの日みたいにつまらなそうに見ているんじゃないかって。  そういえば観覧車が下っている時に「願い事はできた?」と訊いてくれましたね。その時の私にはそんな余裕がなかった。今は、願い事を持つことすらできません。  水島君は、願い事を持って観覧車に乗ったのですか。  この手紙はどこに出せばいいですか。